ともに食卓を囲む

聖木曜日に最後の晩餐を思う

· キリスト教,本の内容紹介

聖木曜日 ー最後の晩餐を記念する
 今週はキリスト教の暦では聖週間と呼ばれる週です。復活祭(イースター)の前の1週間をこう呼んでいます。そして、カトリック教会では、木曜日の今日を聖木曜日を呼んでいます。イエスの最後の晩餐を記念して、毎年復活祭の前に特別な祈りがささげられています。
 共にパンを分け合い、盃を分かち合うことは、教会の中で特別な意味があります。それは、イエスと弟子たちのつながりの象徴であり、十字架にかけられて成し遂げられたイエス・キリストの救いの贖い(あがない)を表しています。
 クリスチャンではない人にとって、後者の説明はわかりにくいと思いますが、前者については同様に感じていることはあるのではなでしょうか。

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ともに食卓を囲むということ
 
第三章は「聖書の中のコミュニケーション」について書いています。その中に、「共に食卓を囲む」ことについて書いている箇所があり、コミュニティについて言及しています。

 「食事を共にいただくということは、お互いの存在を受け入れ、お互いの心と身体を養うことを意味しています。」(P169)

 ともに食卓を囲むということは、私たち人間にとって特別な意味があるのではないでしょうか。このコロナ禍の下では、会食は不要不急と言われているようですが、実の所、生きていく上でとても大切なことのように思えます。食事をとることで栄養を補給し、身体を整え、養うことができます。同時に、食事をとおして心も満たされます。そして、誰かと食事を共にするとき、そこにはつながりを育まれていきます。
 イエスが十字架上で亡くなられ、悲嘆の中にあった弟子たちが、エマオという町への旅の途中で、一人の人と出会います。弟子たちは、その人と食事を共にしてはじめて彼がイエスであることに気がつき、イエスとのつながりを喜ぶのです。

忘れられない食卓
 私には、個人的に忘れられない食卓があります。2018年の初夏から夏にかけての食卓です。
 病気を治療しながら仕事を続けていた長男が、2度目の再発を機に仕事を休職し、実家に戻ってきてからの日々の食事です。6月から8月末までの3ヶ月、息子2人と3人で、毎日の食事を共にしました。もともと料理は好きでしたから、せっせと息子たちに食べさせるため料理をし、たわいない会話をしながら食べたものです。

 その年の9月に長男は帰天(カトリック教会ではこのように表現します)してしまい、もう二度とこの世界での3人の食卓は叶わくなったのですが、今でのその食卓の思い出が私を支えています。共に生きたつながりを思い起こさせてくれます。
 ともに食卓を囲むという、ただそれだけのことが、どれほどかけがえのない大切なつながりだったのかを痛感しました。イエスの弟子たちにとっても、それは同じであっただろうと、何十年も知っていたことを改めて理解したのです。

長男と最後に食べた献立は天ぷらだったみたいです。

長男と最後に食べた献立は天ぷらだったみたいです。

 今でも、次男とできるだけ食卓を囲むようにしています。食事をいただくとき、かつて食卓をともにした人のことを思い出します。長男のことを、時には少し早めに旅立ってしまった友人たちのこと。そして、世界のどこかで一人で食事をしている人のこと、その食事すらままならない人のことを思いうかべるときもあります。
目に見える人、見えない人と共に食卓を囲み、今日をどう生きるのかを思いめぐらせてみるのもいいな、と思うのです。